今日は短めな、認知症のお話。
ハムちゃんはなかなか偏った記事も多いのですが、今回はドイツの介護施設に「ニセモノのバス停」があるという話。この「ニセモノのバス停」はニセモノなのでもちろんバスは来ないのですが、認知症を患った老人の帰宅願望に沿って作られたというもののようです。「家に帰るんだ!」と言って施設を出て行ってしまう老人が、「じゃあここのバス停でバスを待ちましょう」と言われて待つことで落ち着き、施設に自分で戻ることができるようになるんだとか。
話としては「いい話」ですが、本当にこの話は、「いい話」で終わってしまう話なんでしょうか。
さて、このドイツのバス停、ドイツ語では「Scheinbushaltestelle」といいます。何と読むのかさっぱりわかりませんね。
Scheinbushaltestelle – Wikipedia
ドイツ語は全くわからんのですが、英語に訳すと「Slip bus stop」。ちなみに別の言い方では「phantom station」という言い方もするそうで、おお、なにやらカッコイイ。
調べてみると、どうもドイツにしかなさそうな感じです。
上記のリンク先のように、必ずしも外にあるわけではなく、施設の中にある場合もあります。
正直、ドイツ語はまったくわからないので、この偽のバス停の初出がよくわからないのですが、Wikipediaを信じるのであれば、2006年にレムシャイトというドイツの地域の「Landhaus im Laspert」という老人ホーム(かな?)の職員が考え出したとのこと。
おおむね、このバス停に対する反応は好意的です。無理やり認知症の人を連れ戻すことなく、本人の意思を尊重することができるからです。
しかし、批判がないわけではありません。
言わば、この「ニセモノのバス停」は、認知症の人に対する嘘になります。彼らの「妄想」に、悪く言うならばつけこんだ実用的なシロモノだ、という捉え方もあります。
ちょっとどこまで正確に訳し切れているかわかりませんが、上の引用記事には、このバス停の「実利的部分」と「彼らの尊厳を守る」という部分で心が揺れ動くというようなことが書いてあります。
また、こんな記事もあります。
Phantom-Haltestelle im Altenheim
Medizinische Dienst des Spitzenverbandesという、ドイツの医療協会といったところでしょうか、そこは、「ニセモノのバス停」で待つことは、落ち着くよりも、「なかなかこないバス」に「不安を覚える」方が、落ち着いているときよりも多かった、という意見を載せています。また、こうやって本人の「妄想」を肯定的に受容していくことが果たして治療的に正しいのか、介護者と認知症の人の関係を壊してしまう行為ではないか、ということも書かれています。
私はどちらが正しい、という話をしたいのではなく、この「認知症の人に嘘をつく」という問題は、かなり根深い議論になっているのだ、ということを知ってほしいのです。
ちょっと検索するといろいろと出てきます。
認知症のことをもっと知ろう!(第15回)認知症の人とのかかわり方のヒント(5)−その人のためにつく嘘について|介護・福祉のけあサポ
認知症の方の「帰りたい」に向き合った10年:介護の専門性新提案
上記は一例ですが、これを読んだだけでも、介護の現場の人が、この「優しい嘘」に悩み、傷つき、必死に考えていることがよくわかります。プロの中でも派閥がいろいろとあるようです*1。それだけ長年、多くの人が悩み続けている問題なのです。
この「ニセモノのバス停」の話は非常に印象的です。しかし、現実はおとぎ話のように、一つの解決策がすべてを「めでたしめでたし」で終わらせることはできません。ひとつの解決策は多くの場合、別の問題をはらんでいることが多いことを、我々は経験上知っています。それを忘れて、ひとつの考えに飛びつきそこで考えることをやめてしまうことが、より大きな問題につながっていくのだと思います。
「バスのこないバス停」。とても象徴的な話だと思いました。人生は確かに、そうやって答えの出ない何かを待ち続けるようなことなのかもしれないからです。