ネットロアをめぐる冒険

ネットにちらばる都市伝説=ネットロアを、できるかぎり解決していきます。

向田邦子のエッセイのよさを無性に語りたくなる

私はエッセイが好きで、よくブックオフに行ってはごそっと買って、ごそっと読んで、ごそっとまた売りに出す。これが『カラマーゾフの兄弟』みたいな感じになっちゃうと、ちょっと腰を入れて読まなきゃいけないし、おいそれと狭い本棚から追い出すわけにも行かないし、いろいろと付き合いがおおげさになってしまうので、その点、エッセイというのは読むほうも書くほうも気楽なものなので、大変よろしい。

 

いまさら語ることでもないけれど、向田邦子のエッセイはすばらしい。『父の詫び状』が特にすばらしく、あとはまあ、ちょっと落ちちゃう感じは否めないのだけれど、しかしまあすばらしい。

父の詫び状 <新装版> (文春文庫)

 

本人曰く、「左手で」書いたものだから、と言い訳をしているけれども、大リーグ養成ギブスをつけた左手で書いたんじゃないかと思うぐらい、気合の入った気の抜けようの書き方である。

 

特に『父の詫び状』のエッセイ集は、全てを最後の一文で持っていってしまうところに妙がある。

 

例えば表題にもなってる「父の詫び状」は、伊勢海老を友人にもらった話から、父親の癇癪のエピソードになり、読んでいるとあっちこっちに行かされている気分になる。しかし、最後に、邦子が始末をした同僚の粗相に対して、何も言わなかった父が「此の度は格別の働き」と後日手紙を出してきたとあり、そしてこの一文で締めるのである。

 

「それが父の詫び状であった。」

 

はー、とここで納得して、もう一回伊勢海老のところから読み返すわけである。そうすると、もう一回、はー、と納得するわけである。この文の締め方、流れ方が実にうまい。よーく考えると、脚本家らしい起承転結のようになっているのだけど、全部読まないと、その流れがよくわからないようにできているのだ。

 

私はこのエッセイ集の中では「ねずみ花火」が好きで、話は向田が岸田劉生の『鵠沼風景』という日本画が欲しかったという話から始まる。そこから幼少時代の話になり、日本刺繍の下請けの工場の話に変わり、弟の同級生の話になり、女学校の西洋史の先生の話になり、と話は転々としていくのだが、どうやらこれは「死」の話だということに気がつき始める。読んでいるこちらも、向田の周りに漂う死の匂いをかげるようになってくる。

そして、向田はこういう文章で締める。

 

 思い出というのはねずみ花火のようなもので、いったん火をつけると、不意に足許で小さく火を吹き上げ、思いもかけないところへ飛んでいって爆ぜ、人をびっくりさせる。

 何十年も忘れていたことをどうして今この瞬間に思い出したのか、そのことに驚きながら、顔も名前も忘れてしまった昔の死者たちに束の間の対面をする。これが私のお盆であり、送り火迎え火なのである。

 

ここでようやくタイトルの「ねずみ花火」の意味がわかり、そして向田がこれを書いている場所の様子がまざまざと浮かぶ。そこはきっと夏の夕暮れで、虫が鳴き、蚊取り線香がたかれ、少し心地よい風でも吹いているんだろう。それが本当かどうかは知らないけれど、たかがエッセイでここまでの気分にさせられることはそうそうない。

 

思えば若い頃はエッセイなんてほとんど読まなかった。そんなものより、もっと文学的で長い長い小説を読んだ方が有意義だと思っていた。しかし歳をとるにつれ、若いときのせかせかとした態度はだんだん消えてくる。そうするとようやく、「左手で」書いたものの良さがわかり、書きたくなる気持ちというものがわかってくる。向田のエッセイを読んだときに突きつけられるのは、そういう自分の人生の生き方の振り返りである。

 

ということで、ブックオフなら100円で売ってるから、ぜひ未読の方は読んでくださいな。